改めて確信を得た。質的研究なんてものはない。計量研究とその残余があるのみ。

てか、量か質かという区分がそもそもバカげてる。道具にすぎない。仮説を承認し集積していく作業は、論理整合性と経験的妥当性の2軸からなされ、前者は狭い意味では数理モデルから、後者は一般化可能な計量研究からしか成し得ない。計量研究では解けないパズルにぶつかったときに、qualitative な問いをたてればよい。

といいつつ、そのうちちゃんと逆張りしたい。

稲葉昭英,2001,「計量社会学的アプローチ」野々山久也・清水浩昭編『家族社会学の分析視角――社会学的アプローチの応用と課題』ミネルヴァ書房,365-384.

連日の人口学会と研究会でくたくたになって10時間寝てた、マジで。んー、気持ちいいー。ひじょーに有意義だったが自分の研究はあんまり進んでないなー。実質的に何かゲインがあったというよりもすでに既知のものを再確認したような気もするし。まあ、自分が報告しない学会とはそんなものか。あれ、オブザーバー参加はしないんじゃなかったけ? 行きたかったからしかたないね。とはいえ、いろんな人に会えたし、フロアから質問したらその後もメールで議論させてもらったりもできたし、種はまけたのかな。なんにしても、これをいかすもころすも私次第です。さてがんばるぞい。

誰にでもボスはいる。

ミクロ社会学の意義がつねひごろよくわからない。たとえば、ゴフマンの反応の叫び。たしかに、「おもしろい」し、神経生理学的な説明より筋が通ってる(ように思える)。ただ、だから何なのかがよくわからない。もっというと、社会学とは秩序問題の解明であるというのもよくわからない。説明・理解とは解釈であるというのもよくわからない。葛藤理論はわかる、構造機能主義はわかる。だが、それが「社会学とは」になると途端にさっぱりわからん。

まあ、ただ、社会現象のミクロマクロという区別は、一意に定義されるものでは当然ない。研究者(べつにセカンドオーダーに限定する必要もないが)の見方によるものである。

趣味の問題かな。

ハリー・ポッターとログリニアの剣。

シェアメイトと安安。

私は禁酒23日目デス。